TOP>コンセプト>歴史

歴史 History

名古屋の発展の歴史を築いた堀川と広小路

納屋橋

納屋橋 堀川(約90m / 徒歩2分)
セーヌ川 セーヌ川
お手本はパリ。都市空間と水辺との親和性

たとえば、パリのセーヌ川のように都市の中心に川が流れ、その河岸に歴史を語る史跡があるように、都市の歴史を象徴する存在として、都市を形成する景観として川は重要な役割を担っています。
名古屋市の都心を南北に流れる堀川もまた名古屋という都市の発展の象徴であると共に、都市空間に水辺があることの価値が見直され、河岸の開発と活用が積極的に取り組まれています。

※パリ・モンテーニュ通りと広小路栄町商店街は姉妹提携を結んでいます。

堀川(約200m) ※平成27年4月撮影 堀川(約200m) ※平成27年4月撮影
都市空間として堀川沿いを活用

空間として個性ある街並み景観を形成しています。
また、「広小路セントラルエリア活性化協議会」や「レトロ納屋橋まちづくりの会」等によるまちづくり活動が積極的に行われ、様々なイベントも開催され注目を集めています。

堀川(愛知名所図解より転載) 堀川(愛知名所図解より転載)
堀川の発展から始まった納屋橋の歴史

江戸時代、名古屋が尾張の首都になり、名古屋城の築城と城下町の整備が行われるにあたり、築城の資材運搬を行う水路として堀川が誕生し、納屋橋が架けられました。
江戸期には河岸に尾張藩の米蔵=納屋が並び、船運の要所として栄え、明治期以降は笹島に名古屋駅が開業し、広小路通に市電が開通したことにより、都心部の繁華街として納屋橋界隈は発展。
名古屋と栄、2つの都心を結ぶ架け橋として今に至ります。

広小路

広小路 広小路通(約110m / 徒歩2分)
尾張名所図会/広小路夜見世 尾張名所図会/広小路夜見世 (※提供/名古屋市鶴舞中央図書館)
江戸時代の大火事に由来する「広小路」の名称

尾張名古屋の街の歴史は、江戸時代、慶長17年(1612年)頃、それまでの尾張の拠点であった清洲から都市を名古屋に移転した「清洲越え」から始まります。
名古屋城が築城され、城下町が形成されていった中、城下町の南端に位置する3間(約5.5m)の道路に過ぎなかった堀切筋と呼ばれていた通りは、万治3年(1660年)に城下の半分を焼失させた「万治の大火」を機に、避難路になるべく約15間(約27m)に広げられました。それが「広小路」の名称の由来です。
江戸時代は、街路に縁日などがひしめき立ち、庶民の娯楽の場として賑わったとされます。
その往時の賑わいは、愛知名所図会にも描かれています。

広小路通 栄より東を臨む(大正初期) 広小路通 栄より東を臨む(大正初期)
名古屋の発展が礎となったメインストリート

広小路通は、明治時代に栄地区と東海道本線の名古屋駅とを結ぶ幹線道路として整備され、明治31年(1898年)には全国で2番目となる路面電車も開通。
県庁や市役所、銀行等が建てられ、大正時代には映画館などの商業娯楽施設が立地することにより、名実ともに名古屋の発展を象徴するメインストリートとなりました。

広小路通(平成27年5月撮影) 広小路通(平成27年5月撮影)
四季を通じて通りを彩るものたち

名古屋を象徴する大通りであり、名古屋駅と栄の2つの都心を結ぶ広小路通は、街路樹が連なる並木通りとしての美しい景観も魅力。
冬には街路樹に灯されたイルミネーションがロマンティックな雰囲気を演出します。また、広小路夏祭り、名古屋まつりの郷土英傑行列なども舞台となるのは広小路通です。

名古屋市中区

名古屋城 名古屋城
名古屋市中区エリア概念図
城下町として栄えた、名古屋の中心地「中区」

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は尾張の国づくりに着手。
尾張の中心地を清須から那古野(名古屋)へ移行し、名古屋城の築城と共に清須の街すべてを名古屋へ引越しさせる「清須越」と呼ばれる大移転事業を敢行しました。
城下町は碁盤の目のように区画され、その町割りは城の付近に大きな武家屋敷、外堀から南は商家を中心に配置するなど、武士、商人、職人などがそれぞれ同業種ごとに街をつくり、安定した経済活動がその後の反映の基礎を築きました。
「清須越」当時の碁盤割のほとんどは、現在の中区として今に受け継がれています。

出典:名古屋市中区公式ウェブサイト「中区のなりたち」

「中区」の地盤は、名古屋城と同じ名古屋台地
デジタル標高地形図

名古屋市の地形は、東部の丘陵地、中央部の洪積台地、北・西・南部の沖積地の3つに大きく分けられます。
市の中央部には、標高10~16m前後の名古屋台地・熱田台地・瑞穂台地・笠寺台地などの洪積台地が南北に伸び、これらの台地縁辺には、縄文時代以降、集落が形成され、早くから人々の居住地として利用されてきた台地でした。とりわけ名古屋台地は、北は名古屋城、東は覚王山、西は堀川沿い、南は熱田神宮の範囲で象の鼻のような形で伸び、熱田神宮の沖合いは遠浅の海になっていました。名古屋城下は良質な地盤を持つ、この名古屋台地の上に築かれています。

※上記の内容は分譲当時のパンフレット内容を基に掲載しております。掲載している画像・素材などの情報は、分譲もしくは竣工当時に作成・撮影したものとなり、実際とは異なる場合がございます。

このマンションに関するお問い合わせ ▶ ▶ ▶
中古物件はこちら 売却の相談はこちら